戦国の城と城跡 ・ 備前、岡山城跡 (三) 天正6年2月、一度は信長に帰属していた三木城の別所長治が毛利氏に通じ反旗をひるがえした。
(1) 岡山城跡、不明門、右の側面
(2) 不明門の石垣
(3) 本丸を守る鉄砲狭間の土塀
(4) 不明門前の庭園広場
(5)
(6) 当時の鉄門(くろがね)門跡の石垣
(7) 説明板
(8)
(9) 城内を守る高石垣
(10)
(11) 古い築城時の大石
(12)
(13)
(14) 岡山城の内堀の説明
(15) 城内への大手道
(16) 戦国の城跡が偲ばれる内濠の石垣
(17) 城下の歩道
【 説明 】
西軍総崩れの中で、秀家は伊吹山中に姿を消し、やがて島津を頼って薩摩へ
落ちた。だが徳川の厳しい監視の中に島津も隠し通す事が出来ず、秀家の、
義兄にあたる加賀藩の前田利長と、助命を嘆願したのである。その結果、死
一等を減ぜられて、駿河の国の久能山に幽閉された後、秀家と息子の秀勝と
主従13名は、伊豆七島の八丈島へ流されたのである。そうして約50年余
りを過ごし、秀秋84歳にて当地で没した。関ヶ原の合戦の翌年、慶長6年
備前岡山城に小早川秀秋が筑前より入国、在城わずか一年にて死亡、同8年
に池田忠継が入封。その後に池田忠雄が継いだ、その後に池田光政、綱政と
継がれ日本の三公園の一つである「後楽園」を造らせた。その後、明治2年
の版籍奉還まで、池田家により代々受け継がれたが、今日残るものは月見櫓
と西ノ手櫓があるのみである。
( 「名城、名鑑」参考 )
| 固定リンク
| コメント (1)
| トラックバック (0)
















































































































































































































最近のコメント