2012年5月26日 (土)

戦国の城と城跡 ・ 備前、岡山城跡 (三) 天正6年2月、一度は信長に帰属していた三木城の別所長治が毛利氏に通じ反旗をひるがえした。

(1) 岡山城跡、不明門、右の側面

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(2) 不明門の石垣

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(3) 本丸を守る鉄砲狭間の土塀

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(4) 不明門前の庭園広場

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(5)

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(6) 当時の鉄門(くろがね)門跡の石垣

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(7) 説明板

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(8)

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(9) 城内を守る高石垣

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(10)

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(11) 古い築城時の大石

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(12)

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(13)

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(14) 岡山城の内堀の説明

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(15) 城内への大手道

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(16) 戦国の城跡が偲ばれる内濠の石垣

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(17) 城下の歩道

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【 説明 】

西軍総崩れの中で、秀家は伊吹山中に姿を消し、やがて島津を頼って薩摩へ
落ちた。だが徳川の厳しい監視の中に島津も隠し通す事が出来ず、秀家の、
義兄にあたる加賀藩の前田利長と、助命を嘆願したのである。その結果、死
一等を減ぜられて、駿河の国の久能山に幽閉された後、秀家と息子の秀勝と
主従13名は、伊豆七島の八丈島へ流されたのである。そうして約50年余
りを過ごし、秀秋84歳にて当地で没した。関ヶ原の合戦の翌年、慶長6年
備前岡山城に小早川秀秋が筑前より入国、在城わずか一年にて死亡、同8年
に池田忠継が入封。その後に池田忠雄が継いだ、その後に池田光政、綱政と
継がれ日本の三公園の一つである「後楽園」を造らせた。その後、明治2年
の版籍奉還まで、池田家により代々受け継がれたが、今日残るものは月見櫓
と西ノ手櫓があるのみである。    
                     ( 「名城、名鑑」参考 )

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2012年5月19日 (土)

戦国の城と城跡 ・ 備前、岡山城跡 (二) 宇喜多秀家を傘下につけた秀吉は、一挙に3万を超える軍団の軍指令官となった。

(1) 梟雄、直家はこの地に城下を造り、岡山繁栄の基礎を作った。

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(2) 岡山城は別名、烏(う)城とも呼ばれている

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(3)

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(4) 宇喜多直家公像

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(5) 宇喜多家の由来

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(6) 年代表 (一)

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(7) 年代表 (二)  

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(8)

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(9) 宇喜多家系図

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(10)

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(11) 宇喜多家の家宝 (脇差し)

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(12) (刀剣)

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(13) (太刀)

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(14)

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(15)

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(16) 当時の女性の乗る駕籠であろうか。

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(17) 岡山城の歴代年表、藩主とその項目

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(18)

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(19) 天守への入口

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(20)

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(21) 岡山城の模型

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(22) 現在に残る月見櫓の説明

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【 説明 】

秀吉の後見で岡山城の太守となった秀家が成人し、21歳となった文禄3年
(1594年)、岡山城の修築の大工事を始めた。完成したのが3年後の慶長2年
(1597年)である。「石垣高くめぐらし三重の濠をなし、安土の遺制に擬した
天守閣を設け楼閣を増築」したのであった。そして、その年の2月に慶長の
役が始まり、再び朝鮮の渡海が始まった。秀吉は若い24歳の宇喜多秀家を
朝鮮渡海軍の総大将に任じた。そうして、その翌年 秀吉が死に、慶長 3年
秀吉の、約7年近くに渡る、文禄・慶長の役が終わった。

その2年後の慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の合戦が始まり、宇喜多
秀家は26歳となり西軍、豊臣方の副総師となり実践にも優れ、文禄・慶長
役でも活躍をしている。五大老の一人となっている宇喜多秀家は、関ヶ原の
合戦の前に東軍へと誘いがあったが、生前の秀吉に対して深い恩義を感じて
いる秀家は、これを拒み西軍に着いたのである。秀家は宇喜多軍、壱万六千
を率いて合戦の当日、最後まで善戦したが小早川秀秋の裏切りに会い、西軍
は敗北をした。
                     ( 「名城、名鑑」参考 )

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2012年5月12日 (土)

戦国の城と城跡 ・ 備前、岡山城 (一) 秀吉はついていた梟雄(きょうゆう)の直家が没して、嗣子の10歳の宇喜多秀家が秀吉の後見で備前57万石の太守となる。

(1) 岡山城は旭川が天然の外濠になっている

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(2) 烏城(うじょう)公園

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(3) 城内にある 「林原美術館」

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(4) 岡山は備前の名刀の里

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(5) 岡山城の広い内堀 (一)

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(6) 内堀 (二)

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(7) 城内の散策路

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(8) 城内への入城口

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(9)

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(10) 城内入口の、城門跡に立つ公園の石碑

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(11) 側に立つ説明板

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(12) 岡山城の絵図 (一)

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(13) 絵図 (二)

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(14) 山下馬門跡の石垣 

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(15)

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(16) 城内は頑丈な高石垣の土塀に守られている。

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(17)

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(18) 頑丈な高い石垣

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(19) 側面より見える岡山城内入る城門、不明門

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(20)

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(21) 岡山城本丸への入城門、不明門または(あかずの門)ともいう。

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(22)

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【 説明 】

岡山城は今の岡山市の北端を流れる旭川の河畔にあって、黒塗りであった為
烏(う)城とも、よばれている。この地に城を築いたのは南朝の忠臣である
名和長年の一族、上神高直で正平年間に今の岡山城とは少し位置の違った、
石山の台地に構えられ、石山城と称した。現在の規模をもった城になったの
は、戦国時代の末期で文禄、元亀のころ備前の村上氏らの諸豪族をたおした
宇喜多直家が、天正元年(1573年)ここに築城したことに始まる。岡山の名称
現在の城山の麓に小祠があって、岡山殿と呼ばれていたことによるという。
直家は城地を拡大して大いに武威を近隣に誇ったが、同9年に没して嗣子の
秀家がわずか10歳で城主となった。    

幼い秀家は秀吉の後盾で、備前57万石の太守となる事が出来たのである。
その裏には秀吉が備中高松攻めのとき、一夜この岡山城に泊まったところ、
秀家の母のお福が誠心誠意、秀吉をもてなしたということであった。お福は
元、作州高田の城主、三浦貞広の未亡人であったが、秀家の父の直家の側室
となった。直家の死後に秀吉が岡山城を訪れたのであり、お福が37歳であ
り秀吉47歳であった。秀吉は秀家の父代わりとなり秀家が成長するまでと
何かと後見の労をとり、また、一方では、その心の奥に岡山57万石の戦力
は、そのまま秀吉の大きな力となる事も計算のうちであった。そして秀吉は
宇喜多家を、一族のようにして大切にしたのである。
                   
                     ( 「名城、名鑑」参考 )

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2012年5月 5日 (土)

戦国の城と城跡 ・ 播州、姫路城 (六) 備前、岡山城の宇喜多直家が味方に付き、秀吉は播磨の平定に向かい三木城攻めに専念。

(1) 7階より8階見学ホールに移動

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(2) 8階見学ホール

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(3) 窓よりの眺望 (一)

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(4) 眺望 (二)

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(5) 眺望 (三)

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(6) 眺望 (四)

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(7) 眺望 (五)

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(8) ホール内、反対側の窓より工事現場を見学

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(9) 現在、進行中の屋根の工事現場、左側

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(10) 工事現場の大天守の屋根

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(11) 工事現場の屋根右側 

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(12) 同じく大天守の屋根

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(13) 大天守の屋根を覆う鉄骨

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(14) 進行中の現場 

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(15) 7階へ降りる階段

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(16) 7階のエレベーター乗降口へ

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(17) (一) 下降するエレベーター内より撮る  

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(18) (二) 石垣の上部

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(19) (三) 石垣の下部

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(20) エレベーター室、1階の出口

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(21) 本丸広場への出口の階段

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【 説明 】

天正7年(1579年)秀吉は、別所長治の支城のひとつである丹生山 (たんじょ
うさん)城を落とし三木城孤立の一つのあしがかりとした。中国計略の 新た
な展開がようやく8月から9月にかけて見えてきた。まず備前の宇喜多直家
が、信長方に属するということを言ってきたのである。そこで早速、秀吉は
本領安堵の朱印状を、いただきたいと信長のもとに出向いた。ところが信長
は自分に何の相談もなく、宇喜多直家の帰属をはかった秀吉の勝手な振る舞
いに怒り秀吉を安土から追い返した。

しかし中国計略にとって宇喜多直家が信長方になったということの意味は大
きく、一時の怒りがおさまってみると信長にとって宇喜多直家の帰属は、何
としても確保しておかなければならないことであった。後日、宇喜多直家の
一件は認められて信長からの許しが出た。この備前岡山城の宇喜多直家の信
長方への帰属は、秀吉の今後の中国計略の遂行の上に大いなる戦力を得たの
であった。そしてまた姫路城は秀吉にとって戦国時代の中国平定の拠点とし
て、無くては成らない城となっていった。これから秀吉の播磨三木城攻めが
本格的に始まってゆくのである。

現在の姫路城は姫山に最初の城が赤松氏によって築城され、時代とともに城
も立て替えられ、秀吉の時代から家康の徳川時代となり姫路城も格段と大き
くなり現在の城も、四百年余り前の城の優雅な姿を保ちつつ大二次大戦にも
まぬがれた貴重な城で今日に至っている。過去においても大がかりな修理が
行われて来たが、平成に入ってから現在「 姫路城大天守保存修理事業 」で
ある姫路城の大工事が進んでいる。工事の内容は大天守の瓦の葺き替え、と
漆喰大天守の壁の塗り替え及び耐震工事などが、この度の主なる修理の目的
である。この度の工事期間は平成27年の春までとあり、また、再び優雅な
白鷺のような姫路城が現れることでしょう。

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2012年4月29日 (日)

戦国の城と城跡 ・ 播州、姫路城 (五) 秀吉は備前の宇喜多直家を諜略のため、軍師の竹中半兵衛と重臣の鉢須賀小六を、岡山城に送ったが交渉は不調に終わった。

(1) 大天守に行くまで、いくつかの城門を通る。

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(2) ここを通る侵入者を、右の白壁の鉄砲狭間より狙う。 

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(3)

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(4) 頭上に見える大テント

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(5) 頑丈な天守への入口

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(6) 大天守工事のための、大きな足場

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(7) 込み入った内部の工事場の鉄骨 

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(8)

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(9) 

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(10) 本丸広場、大天守へ上る、エレベーターへの階段が見える。

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(11) エレベーターへの上りの専用階段

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(12) 階段を上ると姫路市街が見えて来る。

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(13) 頭上の大テントに描かれている、大天守の絵

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(14) 1階のエレベーター乗降口にある看板 (一)

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(15) 看板 (二)

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(16) 乗降中のエレベーターの内部より石垣を撮る

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(17) 同じく大天守の工事現場

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(18) 同じく工事中の屋根

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(19) 大天守7階の見学ホールに着く

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(20) 見学ホール内の観光客

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(21) 7階の窓よりの眺望 (一)

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(22) 眺望 (二) 姫路市街がよく見える

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(23) 眺望 (三) 歩いて来た城門の方向を望む

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(24) 眺望 (四) 天気に恵まれ、遠くまでも見える。

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【 説明 】

10月15日秀吉は、三木城攻撃のための付城(つけじろ)において、茶会を
開いた。これは、秀吉自らが開いた茶会としては初めてのもので、信長から
拝領した乙御前(おとこぜ)の釜をもちいた。天正6年10月22日、秀吉の
兵と別所長治の兵が三木城下で合戦し、このとき、長治の弟の治定が討ち死
にした。12月11日、戦線が膠着状態になったことに業をにやした信長は
播磨へ佐久間信盛、明智光秀、筒井順慶を秀吉の加勢として出兵を命じ三木
城の付城へ兵糧、鉄砲玉薬などの輸送を命じた。なを、このころ信長の四男
おつぎ丸が秀吉の養子となった。秀吉はかねてから考えていたことは、今は
毛利方についている備前の宇喜多直家を、どうしても諜略し味方につけたか
った念願の中国計略の遂行の上には、どうしても必要な事であった。秀吉は
前に軍師の竹中半兵衛重治と重臣の蜂巣賀小六を、備前岡山城に送り交渉し
たが不調に終わっていた。
                            ( 「 羽柴秀吉と湖北・長浜 」より )

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2012年4月21日 (土)

戦国の城と城跡 ・播州、姫路城 (四) 秀吉は播磨計略の戦功の賞として、信長より茶会を開くことを許された。

(1) これより姫路城の大天守の屋根の工事現場をめざした。

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(2) 姫路城の絵図

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(3)

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(4)

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(5)

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(6)

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(7) きれいで頑丈な櫓の城門をくぐる

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(8)

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(9) 「 ぬの門 」を示す説明板。

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(10) 「 ぬの門 」は二重の櫓門となっている

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(11) 「 ぬの門 」をでると石垣上に、天守を覆った大テントがそびえていた。

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(12) 中央の石囲いは、お菊井戸

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(13) 過去三代の天守の鯱 

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(14) 櫓 (やぐら) の中に保管されてある武将の鎧

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(15) 貴重な鎧であろう

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(16) 大テントを正面より望む、テントの窓は7階と8階の見学室ホールの窓

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(17)

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(18) 当時、この井戸から皿を数える、お菊の声がしたという怨念の井戸。

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(19)

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(20)

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(21)

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(22) 天守に行くまでに、いくつもの城門がある。尋常じゃ姫路の城は落とせない。

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【 説明 】

そして秀吉は反旗をひるがえして毛利に通じた別所長治の三木城を攻撃して
いたが、4月中旬ころ毛利の大軍に包囲された上月城を救うため、5月4日
に本陣を高倉山に移した。しかし信長は「 三木城の攻撃を第一にせよ 」と
命じ、神吉、志方の二城攻撃を命じた。6月21日、毛利勢と秀吉勢が上月
城下で戦い、秀吉方が敗れ、ついに秀吉はやむをえず陣を書写山に移した。
尼子主従を見捨ててしまう結果になった。秀吉に見放された上月城は、毛利
勢の攻撃を支えきれず、ついに7月5日、尼子勝久は自害、山中鹿之助は捕
らえられ毛利の手によって殺された。山陰の名族尼子氏再興の夢は、ここに
おいて完全に断たれた。ついで12月5日、秀吉は播磨の龍野に入り、さら
に上京して安土に向かった。

このとき播磨計略の戦功の賞として、秀吉は乙御前 (おとこぜ)の 釜を与え
られ、以後、茶湯会をもつことが公認された。翌年、天正6年正月1日安土
城で元日の茶会が行われた。秀吉、明智光秀、丹羽長秀ら主だった者12人
が招かれた。しかし、2月23日に秀吉は再び播磨に入り書写山に陣をしい
た。秀吉にとって新しい試練が待っていた。三木城の別所長治が、一度は信
長に帰属していたにもかかわらず、毛利輝元と通じて反旗をひるがえしたの
である。4月2日秀吉は三木城の支城である、野口城を攻め落とした。5月
4日上月城を囲む毛利軍に備えるため陣を高倉山に移したのである。そして
5月16日但馬の山名豊国が秀吉に好(よしみ)を通じてきたため、その所領
を安堵した。
                ( 「 羽柴秀吉と湖北・長浜 」より)

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2012年4月14日 (土)

戦国の城と城跡 ・播州、姫路城 (三) 秀吉は西播磨の諸城を平定してゆくが、備前岡山城の宇喜多直家がその前途をはばむ。

(1)私は第二の城門、菱門を通り姫山の中を散策しつつ姫路城の裏側まで行く。

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(2) 下山里の説明板

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(3) この付近は下山里展望台の跡。

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(4) 今はきれいな、庭園になっている

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(5) 下山里の庭園

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(6) 二の丸を支えている姫山の大きな石垣

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(7) 古い石垣で支えている二の丸の城壁

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(8) 基礎には大石が組み込まれている。

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(9) 姫山の裏手の方に行く通り路

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(10)

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(11) 姫山に姫路城を鎮護する姫路神社が祀れている。

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(12)

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(13) 姫路神社の説明書き

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(14) 姫山の裏手に抜ける道

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(15) 工事中の現場の鉄骨の足場の下を行く。

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(16) 大がかりな改修工事の鉄骨、

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(17) 普通は見れない、お城の風景

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(18) 大天守の側面より撮る、地上約52メートル、ビルの7階、8階にあたる。

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(19) 姫路城の裏手の濠

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(20) 城の裏手の濠際より撮る、大テントの裏に見える小天守群

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(21) 城内の裏側にある建物を示す案内板

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(22) お城の裏側の道路、歩道と車道

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(23) 近辺に立つ姫路城の絵図、現在地を示す。

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【 説明 】

この、秀吉の果敢な攻略に西播磨の諸城は、またたく間に平定されてゆく。
ただ、備前岡山城主の宇喜多直家と結ぶ、作用郡の上月 (こうげつ)城 など
は容易に服さなかった。そこで秀吉は自ら兵を率いて上月城を包囲し、諸方
から攻め込んだ。12月3日城将の赤松政範は自刃し落城した。この時、城
へ援軍を送ろうとした、宇喜多軍と秀吉軍との遭遇戦は激しかったが、城は
落ちた。そうして秀吉は尼子勝久、山中鹿之助ら尼子党を上月城に入れて守
らせたのである。しかし宇喜多直家の反撃によって、天正6年2月尼子党は
城を守れず姫路に退去した。直家は上月城に赤松一族の、上月十郎景貞を城
番として入れる。同年3月再び秀吉は上月城を奪回し、上月景貞を斬り再び
尼子主従に守らせた。
                 ( 小和田哲男書、秀吉記を参考 )

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2012年4月 7日 (土)

戦国の城と城跡 ・ 播州、姫路城 (二) 秀吉は弟の羽柴秀長以下2千余りの兵を、但馬(たじま)の攻略にあたらせた。

(1) 入城口の近くの、西の丸の櫓(やぐら)

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(2) 城内

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(3) 何と綺麗な櫓

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(4) 白い漆喰の壁がつづく多聞櫓

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(5) 漆喰の白壁の狭間(はざま)は、戦時のおりの銃眼。

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(6) 姫路城は二の丸の櫓にしても、美観が溢れている。

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(7)

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(8) 二の丸近辺より外濠を見る

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(9) 静かな外濠

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(10) 二の丸の多聞櫓

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(11) 櫓を支えている頑丈な石垣

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(12)

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(13) 大天守閣を覆う大テントと、小天守群

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(14) 姫路城の歴史を示す説明板

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(15)

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(16) 姫路城への第二の城門

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(17) 菱門への入口

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(18) 第二の城門、菱門(ひしもん)

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(19) 頑丈な門構えとなっている菱門

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(20) 門番の鎧をまとった人は、地元のボランテイアの人

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(21) 鎧をまとったボランテイアの人をカメラに収めました。  

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(22) 工事中の大テント

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(23) 天守閣への道

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【 説明 】

姫路を現在の規模にしたのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で戦功をた
てた、姫路52万石の城主となった池田三左右衛門輝正である。輝正は徳川
家康の女婿で播磨の他に備前と淡路の三国を領し、豊臣恩顧の大名をにらむ
「西国の将軍」と呼ばれていた。さらに池田輝正の後に、元和3年伊勢より
本多忠政が入城し、西の丸、三の丸の増築を行い、天下の名城の総仕上げを
した。その後も城主は変わり明治維新まで続いている。現在に至る姫路城は
池田輝正が、関ヶ原の合戦の翌年、慶長6年(1601年)に、秀吉の頃の城をも
とに新たなる大規模な城を築城すべく起工され、以後、約9年の歳月と延べ
5千万人の人員を要して、慶長14年に完成したのである。

姫路城は姫路平野の中央、45メートルの姫山を利用した平山城で、内濠、
中濠、外濠で堅固に固まられている。天守閣は外部が五層、内部六階の大天
守と三つの小天守を、渡り櫓(やぐら)で巧みに連結されている。このように
大小四基の天守が相寄って、一つの大天守群を構成する複雑巧妙な、連立式
天守は姫路城の眼目であり、「 日本の城 」を語るにふさわしい十分な威容
をそなえている。この城のすぐれた点は曲折をきわめた、城内通路の複雑さ
無数の城門を上下左右に配置した、防備の厳重さ、多聞櫓などの建物や塀の
白壁に無数に作られた各種の狭間(銃眼)、さらに注目されるのは単に防備の
ためという軍事的考慮によるものだけでなく、全体が集まって独自の城郭美
を作りあげているということである。
                   
天正4年7月、信長から中国計略を命ぜられた秀吉は、7月15日長浜を発
して京に入った。その後、秀吉は姫路城を守っていた小寺孝高(よしたか)を
味方にする事に成功した。小寺孝高は、のちの黒田官兵衛孝高で、赤松氏の
出身で、播磨御着城(はりま、ごちゃく)城の城主、小寺則職 (のりもと)の
重臣であった。しかし秀吉は、中国攻めに専念出来たわけでなく加賀の柴田
勝家を総大将とする、上杉攻めや、信貴山(しぎさん)城の松永久秀攻撃にも
出陣をしている。天正5年10月23日、秀吉は再び播磨に出陣し、小寺孝
高の姫路城に入った。ここで、播磨国内にて秀吉に味方する諸将から人質を
とり、ついで但馬(たじま)は、昔の山陰道のひとつで、今の兵庫県の一部に
弟の羽柴秀長以下、兵2千を与えて進発させた。

             ( 「名城名鑑 」並びに「秀吉記」を参考 )

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2012年3月31日 (土)

戦国の城と城跡 ・ 播州、姫路城 (一) 秀吉は黒田官兵衛の居城である姫路城を、中国計略のあしがかりとした。

(1) 姫路城前、大手前通り

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(2)

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(3)

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(4) 大天守改修工事中の姫路城

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(5) 姫路城跡の石碑

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(6) 大手門に入る桜門橋

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(7)

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(8) 姫路城の外濠

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(9)

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(10)

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(11) 第一の門である大手門

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(12)

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(13) 改修工事についての説明板

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(14) 大テントの内部を示す

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(15) 城郭の絵図

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(16) 三の丸広場より見える、大天守を覆う大テント

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(17)

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(18) 城の入城口への道

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(19)

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(20) 入城口、チケット売り場

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【 説明 】

姫路城は、かって熊本城、名古屋城と並んで日本三大名城と呼ばれている。
別名白鷺城と呼び国宝に指定されており、姫路城が完成したのは17世紀の
始め日本の城ことに天守閣の全盛時代であった。姫路城は日本の築城技術の
粋を集め、その威容と美観を発揮した城はないといっても過言ではない。特
に近世城郭の見本として天守閣を初め、多数の建築物が残されている日本の
文化遺産としては、世界に誇れる貴重なものである。最初にここに城が築か
れたのは遠くは後醍醐天皇の建武の中興(1334年)にさかのぼる。元弘の乱と
呼ばれた時代、播磨の赤松則村が打倒北条幕府を目標に上洛の途中、姫山に
陣をかまえ正平3年(1348年)則村の子、貞範 (さだのり) が、ここの姫山に
城を築いたのである。

その後、室町時代を通じて赤松氏の居城であったが、戦国時代に入ると羽柴
秀吉が信長の命で中国計略に踏切、まず初めに信長に味方する播磨の御着城
主の重臣である黒田官兵衛孝高(くろだかんべえ、よしたか)の、城である
姫路城に入りここを中国計略のあしがかりとした。三木城の別所長治を滅ぼ
してより後は、姫路城を本格的な中国攻めの居城とし、天正8年(1580年)に
三層の天守閣を築いた。これが現在の姫路城の初めである。
              (「名城名鑑」並びに「秀吉記」を参考 )

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2012年3月24日 (土)

戦国の城と城跡 ・ 近江、長浜城 (四) 天下統一をめざす信長は、秀吉に中国計略を命じた。

(1) 城内より望む天守各

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(2) 琵琶湖、湖岸より天守を望む

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(3) 湖岸の風景 (一)

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(4) 風景 (二)

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(5) 風景 (三)

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(6) 風景 (四)

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(7) 風景 (五)

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(8) 風景 (六)

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(9) 風景 (七)

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(10) 当時の湖岸を埋められて出来た土地

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(11) 当時の築城工事の際に、埋められたとある用石の説明板

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(12)

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(13)渚に立つ 「太閤井戸跡の碑、」 当時に使用されていた井戸であろう。

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【 説明 】

天正4年正月2日に信長は、丹羽長秀を総奉行として安土山に安土城を築城
することを重臣達に命じた。4月1日より石垣工事が始められた秀吉も家臣
を動員して、この工事に参加した。5月に入り石山本願寺との戦いが本格化
し、7日には信長勢は若江から天王寺さらに本願寺の木戸口まで攻め込んで
いるが、やがて信長対本願寺との戦いというより、本願寺に兵糧を送り込も
うとする毛利軍との戦いとなり、木津川河口での合戦で織田水軍は毛利水軍
に敗れている。そのようなことで信長は秀吉に中国計略を命じた。秀吉は、
7月15日長浜から京に入った。秀吉にとって中国計略という重大な任務を
帯びることになったのである。そのやさきの10月14日に秀吉は、実子の
秀勝を失った。

中国計略という、重大任務を信長から与えられた秀吉は、早速得意の調略に
よって味方とすべき播磨における武将への働きかけを開始した。その手始め
になったのが、小寺孝高( こでら、よしたか )すなわち、黒田官兵衛孝孝
( くろだ かんべえよしたか )のちの如水である。孝高の父の 職隆(もと
たか)が、赤松氏の一族で播磨御着城(はりま、ごちゃくじょう)の小寺則
職(こでら、のりもと)の家老であったという関係もあり孝高(よしたか)
も16歳で小寺氏に仕え、姫路城を預けられるほどの重臣であった。秀吉は
この孝高の子である松寿(まつじゅ)のちの黒田長政と、別所重棟(べっし
ょ、しげむね)の娘との婚約を結ばせ、2月10日松寿を信長のもとに送っ
て人質とした。
                 ( 小和田哲男書、秀吉記を参考 )

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«戦国の城と城跡 ・ 近江、長浜城 (三) 織田家の中で数々の功績をなした秀吉は、官位をもらい「 羽柴筑前守秀吉 」と任じられた。