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2009年10月

2009年10月31日 (土)

聖徳太子(7) 法隆寺、東院伽藍へ

(1) 東院伽藍への掲示板 

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(2) 西院伽藍、中門

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(3) 東伽藍のある南大門を望む

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(4) 途中の築地塀の案内板

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(5)  南大門を過ぎると東院伽藍が見える

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(6) 夢殿がある東院伽藍

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(7) 東院伽藍の四脚門

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(8)  東院伽藍入り口

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東院伽藍は西院伽藍の中門の前より、右の広い道を東大門の方に歩いて行くと
夢殿がある東院伽藍に着く。西の大門より夢殿(ゆめどの)がある東院伽藍ま
では距離にして1キロ足らずと思われる。それでも中門から東院伽藍までかは
なり歩き、どこまでも長い石畳と築地塀の中を歩くのである。そして東大門を
過ぎると、東伽藍の入り口である上宮王院(じょうぐうおういん)の四脚門に
着く。ここに斑鳩の宮があったころ、聖徳太子がおられた摂政家の事を、上宮
家とも呼ばれ、その後、宮跡に夢殿など東院伽藍が造営されて、この地を上宮
王院とも呼ばれるようになった。

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2009年10月28日 (水)

聖徳太子(6) 法隆寺西院伽藍 その二、

(1) 西院伽藍へ

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(2) 五重の塔

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(3) 金堂 ( こんどう )

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(4) 金堂

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(5) 回廊の庭、中央は大講堂

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(6) 三経堂

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(7) 精霊院 ( しょうれいいん )

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(8) 精霊院の中に聖徳太子の摂政像が安置されている

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(9) 高床式の、網封蔵 (こうふうぞう) 

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(10) 網封蔵 (寺宝を収納する高床の宝蔵)  

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(11) 網封蔵の掲示板

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この回廊の内側には五重塔を始め金道(こんどう)大講堂など、主なる建物が
あり他に経堂、鐘楼、がある。五重塔には釈尊の遺骨が奉安されてあり、金堂
は法隆寺のご本尊を安置する聖なる殿堂である。大講堂は仏教の学問を研鑽し
たり、法要を行う施設として建てられている。また、回廊の外側には三経院、
西円堂があり、法隆寺の名宝が納めてある大法蔵院、聖霊院などの伽藍が建ち
並んでいる。東西の伽藍には飛鳥時代を始めとする、各時代の粋を集めた建築
物が軒をつらね、沢山の宝物が伝来し国宝や重要文化財に指定されている。
                                   (冊子、法隆寺を参考)

 

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2009年10月25日 (日)

聖徳太子(5)法隆寺、西院伽藍 その一、

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(2) 西院伽藍,中門

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(3) 中門の左側にある法隆寺の石碑

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(4) 中門の左側に立つ仁王像 

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(5) 右側に立つ仁王像

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(6) 中門の屋根越しに見える五重塔

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(7) 中門より入った回廊内

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(8) 中門、左側の回廊

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(9) 中門の二重の屋根を支えている回廊の柱

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(10) 1400年の星霜を経る回廊の柱 

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(11) 中門、右側の回廊 

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(12) 五重塔

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(13) 五重塔

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(14) 回廊内の庭

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西院伽藍は中門の左右から広い回廊が大講堂まで続き、その回廊の内側には西
院伽藍の中心となる五重塔や金堂(こんどう)など、飛鳥時代の建物であり、
また回廊の外側にも多くの建物が建っている。回廊は法隆寺の特徴なのか東院
伽藍にも回廊があり西院伽藍の方が規模は大きく堂々としている。この回廊の
屋根を支えている一本々の柱にしても大きな木が、そのまま柱として使用され
ている。今から1400年前に創建されたものであるが、現代とは違いその頃
は大型のクレーンやコンピュウターなどが無い時代に、五重塔の建築を始め当
時の人達の緻密で、高度な技術には圧倒されるようで、まさに驚きである。

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2009年10月22日 (木)

聖徳太子(4) 法隆寺南大門

(1) 南大門入り口

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(2) 大門前の右側の小路

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(3) 左側の小路

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(4) 南大門前の掲示板

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(6) 法隆寺由来の掲示板

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(8) 南大門を通ると正面に見える中門

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(10) 中門の前から右に東大門を望む

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(11) 左に西大門を望む

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法隆寺の表玄関にあたる南大門は,1438 年 に 再建されたものであり表玄
関の南大門を過ぎると、東西に伸びる長い石畳の道路がある西に行けば西大門
に行き、東へ行くと途中に東大門があり東院伽藍は東大門を過ぎて又歩くこと
になるが、夢殿がある東院伽藍に着くには、長い々参道を歩くことになる。
南大門から正面に見えるのが西院伽藍の入り口である中門であり、中門の左右
に広い回廊が造られ、その回廊を支える柱も見事なもので、その内側に西院伽
藍の中心となる五重塔、金堂、大講堂がある。

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2009年10月19日 (月)

聖徳太子(3) 法隆寺境内

(1)  中央は境内入り口の参道

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(4)  法隆寺、南大門の前

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(5)  法隆寺、南大門の前

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(6)  法隆寺、南大門の前 

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(7)   法隆寺、南大門

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法隆寺境内の長い松並木の参道を行くと、法隆寺の表門にあたる南大門に出る。
法隆寺は用明天皇元年( 586年 )天皇ご自身の病気平癒の為、寺と薬師如
来像を造ろうと発願されたが計画のまま崩御されたので、そのご意志を継がれ
妹君にあたる推古天皇と、聖徳太子が推古天皇15年(607年)に、薬師如
来像を造り寺を創建された。法隆寺の境内の広さ約18万7千平方メートルの
広大な境内には五重塔、金堂、大講堂などを中心とする西院伽藍と、夢殿(ゆ
めどの)を中心とする東院伽藍に分けられている。

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2009年10月16日 (金)

聖徳太子(2) 叡福寺 ( 三骨一廟の太子廟 )

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こうして推古天皇の摂政である聖徳太子は、日本の国を大国である隋と同等の
立場に立てる国にし、律令国家を作り日本の国の礎を築いた聖人にして偉大な
る政治家であった。その聖徳太子も49歳にして、体調を崩し妃と共に、斑鳩
寺で50歳にして薨去された。遺体は河内の磯長(しなが)の現在の大阪府南
河内郡太子町に埋葬された。

その後、第45代の聖武天皇が聖徳太子の功績を称えて、今の叡福寺の前身で
あった、太子寺又は石川寺と呼ばれていたが聖徳太子の為にお寺を建立された。
当時、寺の面積も現在の叡福寺の40倍から50倍の広さを持つ広大なお寺で
あったと言われている。また、現在の叡福寺の太子廟は、三骨一廟といわれ、
聖徳太子、妃、太子の母の三体が一緒にお祀りされている。
                         ( 所在地、大阪府南河内郡太子町 )

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2009年10月13日 (火)

聖徳太子(1) 叡福寺(えいふくじ)

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聖徳太子と言えば、これまでに壱万円札や千円札に印刷された、おなじみの肖
像画を思いだすが、聖徳太子は( 574~622年 )にかけて第31代用明天皇の
皇子であり成長され父の用明天皇と32代の崇峻天皇が亡くなり、33代の皇
位を継いだ(日本初の女帝)の推古天皇が即位すると、22歳になられた聖徳
太子を摂政として政治を任せられた。

豪族である蘇我の馬子の血族である聖徳太子は、深く仏教に帰依され冠位12
階を草案し、17条憲法を定め、天皇制の確立と仏教の興隆の為に努力をされ
た。また,一方で大陸に目を向け朝鮮の新羅(しらぎ)への 援兵や、中国大陸
の隋(ずい)に、遣隋使の小野妹子を派遣し中国との国交を開いた。国内では
法隆寺や四天王寺、そのほかの寺院を建立し仏教の振興に尽くされた。のちに
聖徳太子が薨去されて120年余り経て第45代の聖武天皇の時代、この地に
お寺が建立された。

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2009年10月10日 (土)

仁徳天皇陵 ( もず、みみはらのなかの、みさぎ )

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(2)  駐車場

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(4) 御陵全景 

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(5) 御陵前左側の参道

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(6)  御陵前右側の参道

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(7) 御陵前の左側の外濠

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(8) 御陵前の右側の外濠

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(9) 墓前

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仁徳天皇は第16代の天皇で父は応神天皇、母は仲姫(なかつひめ)といわれ
妃の、磐之媛命(いわのひめのみこと)との間に一男一女を授かる。即位する
と難波の高津の宮に都を移したが、宮殿を飾ることもなく天皇は自分のことで
民の耕作や、機織りの時間を奪ったらいけないと思い、また仁徳天皇は高処に
登り一望し、水煙のたちのぼらない民の暮らしを見て、人民の暮らしの貧しさ
ゆえと察して、三年間の課税を免じ人の苦しみを、やわらげようとした。  

帝が自らの生活も食べる物も着物や履き物も質素にし、着物や履き物は破れる
まで着たりした。宮殿の屋根や壁が壊れても修理せず、雨漏りはしたままとし
た。こうして、天皇は応神天皇の朝鮮出兵の疲弊した国力の回復に努めた。三
年後人民は豊かになり国内から、天皇の徳を称える声が起こり水煙も上がるよ
うになった。国力が回復すると土木工事に力を入れ、難波の荒れ地を掘って堤
を築造したり、排水路を作り水害を防ぎ田畑を開くなど、大阪平野の開発に力
を注ぎ人民の暮らしは豊かにった。時は五世紀から五世紀前半にかけての頃で
あった。  

仁徳天皇は、在位87年83歳で没し、ここの御陵に祀られた。また、この御
陵は 百舌鳥耳原仲陵 (  もず、みみはらのなかの、みさぎ )といわれ、三
重の濠がめぐらされ、外濠を含めた東西の長さが約660メートル余り、南北
の長さ約800メートル余りで、周囲が2.7キロメートル余りの巨大古墳、
その大きいことから大仙陵とも呼ばれている。
                                       ( 歴代天皇辞典、参考 )
                                                  
       ( 所在地、大阪府堺市大仙町 )

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2009年10月 7日 (水)

応神天皇陵 ( おうじんてんのう )

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応神天皇は15代の天皇で父は仲哀(ちゅうあい)天皇、母は神功皇后、また
別の名を誉田別尊(ほむたわけのみこと)とも言う。父の仲哀(ちゅうあい)
天皇の死後、母の神功皇后が勇ましく男装して、新羅しらぎ(朝鮮)へ征討し
新羅を服属させた。その帰りに皇子の応神天皇が九州筑紫で誕生した神功皇后
が、摂政となり応神天皇は三歳にして皇太子となった。

応神天皇は成長し、妃は仲姫命(なかつひめのみこと)を娶り、母の皇太后が
摂政として政治を行っていたが、母の神功皇后が崩御すると即位して応神天皇
となり応神天皇もまた朝鮮半島へと出兵した。その後、大陸から特に朝鮮との
交流が盛んになり、応神天皇は多くの文化や技術の導入を積極的に行い、日本
における耕地の開発や鉄製の武具、農工具が大いに普及した。

応神朝は四世紀末から五世紀初頭にかけて、応神天皇は在位四十一年間百十歳
で没した。応神天皇陵は、恵我藻伏岡陵(えがのも、ふしのおかの、みさぎ)
と言われまた、べつの呼び方は譽田山陵(こんだのみささぎ)と言う。応神天
皇陵は国内で仁徳天皇陵に次ぐ、二番目の前方後円墳である。

                                                (歴代天皇辞典、参考)
 ( 所在地、大阪府羽曳野市誉田六丁目  )

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2009年10月 4日 (日)

日本武尊 ( ヤマトタケルノミコト ) 白鳥陵

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時代は四世紀頃、そのころは九州の隈襲(くまそ)東北の蝦夷(えみし)を始
め、東国の12カ国が、時の天皇に逆らう酋長や族長がいた。日本武尊(ヤマ
トタケルノミコト)は、第十二代、景行天皇の皇子として生まれ武勇に優れ、
景行天皇の命により西国の九州の熊襲(くまそ)や出雲の征伐を行い東国の平
定(東征)に出かけた途中、三重県亀山市能褒野町で病没し終焉地となる。 
   
日本武尊が東征のおり途中静岡の焼津市あたりで、そこの悪い役人に騙されて
日本武尊が火攻めに遭い、その時、ヤマトタケルが所持している「天叢雲の剣」
(あまのむらくものつるぎ)で、草原を薙ぎ払うと風向きが変わり悪人達を征
伐した。それ以後ヤマトタケルは「天叢雲の剣」を『草薙の剣』と改名したあ
る、その剣が三種の神器のひとつで、名古屋市熱田神宮のご神体となっている。
また、焼津という地名も、そこに語源がある。

終焉地となった三重県亀山市能褒野(のぼの)で病没したその地に日本武尊の
白鳥陵が造られ。その時、能褒野の白鳥陵から大和の方に向かって一羽の白鳥
が飛び立ち、大阪の(ふるいちむら)今の羽曳野市に降り立ち、日本武尊の白
鳥陵が造営された。それが羽曳野の白鳥陵であるまた、日本武尊に関する白鳥
陵は、他にも三重県鈴鹿市、奈良の御所市にもあり。日本武尊に関係ある神社
は鈴鹿市の加佐登神社や静岡市には草薙神社などがある。         
                  (歴代天皇辞典、参考)   

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              ( 所在地.大阪府羽曳野市白鳥一丁目 )
       

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2009年10月 1日 (木)

大阪城、 ( 城内二の丸の、豊国神社 )

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大阪城の二の丸にあるこの神社には、太閤秀吉、豊臣秀頼、豊臣秀長を祀って
いる豊臣家の神社である。秀吉が大阪城を築城したのが、天正十三年(1585)
その後、秀吉は関白となり九州を平定し小田原の北条や北陸、東北を平定し天
下統一を成し遂げたのである。
 
また、秀吉は太閤となり一方では四国、九州の平定前から、朝鮮や明の侵略の
構想を持っていた。文禄慶長の役での他国の侵略は失敗に終わり、多くの将兵
を犠牲にし、何にも報われることはなく文禄慶長の役は終り、秀吉は後に残る
子供の秀頼の事を気にかけながら、六十三歳の生涯を終わった。そうして秀吉
の亡骸は、京都の阿弥陀ケ峯の 豊国神社に厚く埋葬された。

秀吉亡き後の豊臣政権は、関ヶ原の合戦と大阪夏の陣、冬の陣で豊臣家は滅び
天下は徳川家に移り、大阪城も徳川家の所領となった。その後この地に神社が
祀られ、戦国の世に信長の草履取りより武家の頂点を極め、天下統一を成し遂
げた一代の英傑、豊臣秀吉を称えて、ここ二の丸の神社にお祀りされている。

   大阪城の天守閣の所在地は、以下の通りです。

 〒540 大阪府中央区大阪城一番一号
 TEL (06)941-3044

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