« 戦国の城と城跡 ・ 京都伏見区、淀古城址 秀吉は天正18年2月28日参内し、東国征伐のため勅許を得て節刀を賜り、秀吉の出陣は3月朔日(ついたち)であった。その数、水陸併せて21万余りであり、秀吉は長期作戦の周到なる準備を整えていた。 | トップページ | 戦国の城と城跡 ・ 小田原攻め (二) 「箱根湯本の早雲寺と北条五代の墓」 天正18年3月29日払暁、秀吉軍は山中城攻撃と呼応して伊豆韮山城攻撃が開始された。正面攻撃は筒井定次一万余りと本陣勢一万七千、右翼に織田信包(のぶかね)九千余、左翼に長岡忠興他九千、総勢五万余りであった。  »

2013年2月23日 (土)

戦国の城と城跡 ・ 小田原攻め (一) 「初代早雲公像と北条氏政 ・氏照の墓所」、 豊臣諸軍の小田原城の支城である関東の山中城攻撃が開始された。右翼に池田輝政2万余り、正面 羽柴秀次1万8千、左翼に徳川家康の 3万余りの7万余りが押し寄せた。

(1) 戦国時代の先駆者、北条早雲公像。
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(2) 早雲公は「火牛の計」を用いて、大森氏の住む小田原城を占拠した。
 
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(4) 早雲は室町時代に大森氏の山城、伊豆の韮山(にらやま)城を攻めとった。
 
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(5) 早雲は関八州のほか伊豆、駿河にも進出し小田原北条五代の祖となった。
 
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(6) 北条早雲は小田原城を関八州制覇の拠点とした。
 
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(9) 北条早雲公の説明書き。
 
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(10) JR 小田原駅、東口近くにある北条氏政と氏照の墓所。
 
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(12) 墓所の説明書き
 
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(15) 中央左側の小さな墓石が氏照公、右側が氏政公、その右が氏政夫人。
 
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(17) 墓地内の説明書き。
 
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【 説明 】
 
東海道、新幹線の西口駅を出ると大きな台座にのった「北条早雲公像が牛の
群れの両角に松明をつけ」た大きな銅像が見えて来た。その台座の側に早雲
公についての説明書きが書かれていた。北条早雲またの名を伊勢新九郎盛時
と言い関東の戦国時代の初期の武将で、戦国大名となった後の北条氏の祖で
あるまた、晩年には伊勢宗瑞(いせそうずい)とも呼ばれ、北条早雲の活動は
東国の戦国時代の先駆者であった。世は下克上の時代となり早雲は伊豆との
国境に興国寺城(現在の沼津市)の城主となり、伊豆に討ち入り十一代将軍の
足利義澄、兄弟を襲撃して滅ぼし伊豆を奪った。
 
そうして早雲は、伊豆韮山(いずにらやま)城( 現在の伊豆 )を居城として
伊豆の国の統治を始めた。また早雲は明応四年(1495年)9月相模の小田原の
大森藤頼を討ち小田原城を奪取した。そうして、間もなく相模全土を配下に
置いた。北条早雲は戦国大名の先駆者となった。早雲は、小田原城に嫡男の
北条二代の氏綱を入れて、自らは興国寺城において氏綱の後方を守り戦国の
頃には、めずらしく早雲公は88歳の天寿を全うしたのである。
 
また同じく小田原駅の東口より5分位の市街地の中に北条家の墓所がある。
その墓所は、北条家四代の領主の氏政公と弟の氏照公の墓が小田原市の指定
史跡として市街地の一角に祀られてあった。小田原城四代城主の氏政公は、
箱根湯本の早雲寺境内の、北条五代の墓所にも祀られている。弟の氏照公は
関東の八王子城を始め五つの城の城主であった。小田原城開城の後、城下で
氏政公と、その夫人、氏照公が自刃したのであった。
                ( 小田原城「名城をゆく」参考 ) 

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